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曖昧な記録

日々の出来事への執着が、どうやら人より薄く、その上かなり適当らしい。
例えば昨日の昼ごはんの記憶も曖昧で、食べたい気分だった卵が冷蔵庫をあけてからない事に気づき、そこでようやく前日に炒飯を作って卵を使い切ったことを思い出す。かと思えば、牛乳を切らしていると思い買って帰ると、そこには前日に買った同じものがあったりする。
自分でも呆れるほど日々の記憶がままならない癖に、とても細やかなディティールまで思い出せる事もある。

ある秋の日、店頭の饒舌な黒板が目につき立ち寄った店。増築を繰り返したのであろう入り組んだ間取りに、昔ながらの白いビニル張りの床。部屋ごとに照明の明るさが違う。通された奥の部屋には磨りガラスの大きな窓があり、雑多な植物が外に生えているのが見て取れる。その窓からの光を受けた机の上のポタージュスープは神々しく輝き、神様の食べ物かと錯覚した事。続けて出された海老フライには、レモンの輪切りがひらりと乗っていて、お皿の上に2尾がお行儀よく並んでいた事。そしてそれらは、大変美味しかった。
これは旅先で訪れた洋食屋での記憶だが、ここまで思い出せるのは旅先に限っての記憶が特別冴えるというわけでもなんでもなく、見惚れるあまりに撮った写真が二枚だけ手元に残っているからである。

写真は、曖昧な日々の出来事であっても、確かにその瞬間、とある一地点において、私の目の前で起きていたことだと記録してくれる。それは時が経ち再び出会った時に、付随する記憶をふわりと呼び起こすのだ。
不思議な事に、毎日過ごしている場所でのある日の煌めきは、後々見ると随分に余所余所しい表情をしているために、首をかしげることもある。
あるいは、旅先で初めて訪れた景色は、何故だか懐かしい表情をしていて、実はそれ以前に訪れたことのある景色だったのかも知れないと思い直すこともある。
結局私自身の記憶とは曖昧なものだが、手元にある写真の中の記録だけは、実際にこの目で見た確かなもののはずなのだ。

確かな記録と、それがもたらす曖昧な記憶。
私はこの二つの間を彷徨いたいが故に、写真を撮るのだ。